百年の歴史と共に

江戸の伝統と粋、そして 艶やかな花街の気風を伝える街、 東京日本橋人形町。 玄冶店 濱田家は大正元年 この地に店を構えて以来、 創業百年を迎えました。

与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)

玄冶店は歌舞伎の舞台としても有名です。 歌舞伎で「お富さん」「切られ与三」といえば、お富と与三郎の情話を描いた世話物の名作「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」。

江戸の大店、伊豆屋の養子与三郎は木更津に預けられていますが、ある日地元の親分、赤間源左衛門の妾お富に一目惚れ。情事が露見してめった切りにされます。お富も海に身を投げますが、ふたりとも命はとりとめました。

それから3年。与三郎は勘当され、34か所の刃傷をもつ「向疵の与三」として悪名を馳せています。一方お富は和泉屋の大番頭、多左衛門の妾となっていました。ごろつきの蝙蝠安と与三郎が偶然にもお富の妾宅に強請に入ったことから、お互いに死んだと思っていたふたりが再会。その名シーンが四幕目、玄冶店妾宅の場です(劇中では源氏店)。

「しがねぇ恋の情けが仇……」で」始まる長科白が有名です。なお濱田家のシンボルマーク「蝙蝠(こうもり)」は、劇中の登場人物、蝙蝠安にちなんでつくられました。

与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)

与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)

玄冶店の由来

「玄冶店」の地名は、徳川家の御典医であった岡本玄冶(1587~1645年)に由来します。玄冶は3代将軍家光が痘瘡を病んだ折りに見事にこれを全快させ、一躍その名を高めたといわれています。

日本橋人形町の一角には玄冶店跡を示す碑玄冶は幕府から拝領した土地に借家を建て、庶民に貸したことから一帯が「玄冶店」と呼ばれるようになりました。現在でも日本橋人形町の一角には玄冶店跡を示す碑が建てられ、将軍家より玄冶に下賜されたと伝えられる橘稲荷神社が残っています。

日本橋

川上貞奴と濱田家

川上貞奴「濱田家」の名は、花街として知られた芳町(現在の人形町周辺)の芸者置屋「濱田家」に始まります。 「濱田家」の芸者貞奴は、日舞に秀で、彩色兼備の誉れが高く、時の総理伊藤博文など名だたる元勲からも贔屓にされた名実ともに日本一の芸者であったといいます。のちに彼女は日本初の女優、川上貞奴として知られることになります。
置屋としての「濱田家」は、明治の末に店を閉めます。しかし当社の創業者である三田五三郎が大正元年に開業する際、貞奴から由緒ある「濱田家」の名を譲り受けたことにより料亭「濱田家」が誕生しました。

日本橋人形町

江戸の粋を今に残す東京の下町「日本橋人形町」は、歌舞伎や人形芝居が盛んであった江戸時代に人形遣いが多く住んでいたことが地名の由来といわれています。

明治座へと続く甘酒横丁など下町情緒の残る小粋な界隈には江戸時代から続く伝統工芸の店や老舗の味処も多く、季節を告げる瀬戸物市や人形市、べったら市も人気です。

また人形町界隈には、安産・子授けの神様である水天宮をはじめ七福神が点在しています。日本橋の七福神めぐりをする人々の姿は、年の初めの風物詩ともなっています。

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